2006年11月18日

いじめ=悪いこと=しちゃいけないという図式には説得力があるだろうか?

最近、すごいことになってます、この国のいじめ事情。いじめられている子たちがどんどん死んでしまっています。その辺りのことについて先日民放で放映された番組を偶然見ました。そしてその中でやっていた小学生の座談会を見て自分なりに思うことがあったのでちょっと掘り下げてみようと思います。
あまりに深い問題に、まーるの考えもとっ散らかってしまっていますがとりあえず。。。

※これは、座談会の内容がすべてヤラセでないことを前提に考えています。

番組では、まず小学生へ質問し同意したら挙手をして貰っていました。
その中で「いじめられる方にも原因がある」という質問に対し、相当数の子供が挙手しました。これは今大人の中でも論議をかもしている部分ですね。
確かに、いじめられる側にもそれなりの理由があるとまーるも思います。まーるも中学生のころ苛められたり苛めたりしていました。まーるのクラスでは苛められ役が持ち回り制のようなものでしたから。苛められる人というのは明らかに理由があって苛められます。どんなに理不尽にみえようとも。そしてそれは本当にいじめられるという代価とは釣り合わないくらい小さなこと、髪の毛の先ほどの小さな小さなことだったりします。例えばほんのちょっと「無神経」だったりほんのちょっと「不潔」だったりほんのちょっとだけ「自己中心的」だったり。それは事実としてそれを否定する必要はないと思います。原因となった事象と人格とを混同してはいけないということ。この混同による人格否定こそがいじめの図式だと思います。
そして大事なことは「だからといって苛めていいのか」という点。よく言われる「いじめは悪いことだからしてはいけない」という言い方はまーるは嫌いです。悪いことだからって言ってしまうとまるで「誰かに怒られるからしてはいけない」と言ってるように聞こえませんか。はっきり伝えなければいけないのは「いじめは卑怯だ」ということなんじゃないでしょうか。「卑怯」ということ。まーるも卑怯という言葉の定義については正確なことはよくわかりません。【卑怯:勇気がなく、物事に正面から取り組もうとしないこと。正々堂々としていないこと。また、そのさま>yahoo大辞泉より】 でも卑怯という言葉は何より自分に跳ね返ってくる言葉だと思います。「卑怯なヤツ」と言われたらまーるは恐らく一番キツイ。そしてこれは大人達が自分の身をもって示すしか伝える方法はないと思います。

子供達の姿は大人の世界の鏡であるということを大人がもっと思い知らなければいけないんだと、自分を省みて思います。生きていることの有難さ。どれだけ一人一人が貴重な存在であるかをどうやって現し子供達に伝えたらいいのか。それは大人自身が真摯に生きること、その背中や涙や汗でしかそれは伝わらないのではないか。そこでまーるが思うのは人には「信仰」が必要だということ。目に見えない大きな大きな存在に気付くこと。神、あるいは神と呼ばれているもの、それが自分の外にいるのではなく他でもない自分自身がその一部であるということ、それに気付くか気付かないか。生きるということを突き詰めていくと最終的には人は誰もがそこへ辿り着かざるを得ないのではないかとまーるは思っています。(ここで声を大にして言っておきたいのは「信仰」というのは「宗教」ではないということです。)
いじめている人たちもいじめられている人たちも、もし自分の中にある神性を信じることが出来たらどうだろうと思うのです。
まーるは、信仰があったとしてもいじめがなくなるとは思わないです。いじめる、いじめたいという感情の働きは多分なくならないと思います。だけど、自分の中に神の一部を見出せたならそれは抑えることが出来るんじゃないか。そういう自分を恥じたり、あるいはそれを自分の欠点としてコントロール出来るかも知れない。いじめられている子たちは、否定されているのが自分のどこか一部分だけであるということ、そしてそれはあくまでも相対的であって絶対的なものではないということ。そして何より自分は独りではないんだということ、それを信じられるのではないかと思うのです。実際に人がそばにいてくれようがいなかろうが、たった一人で部屋にいるその時でも、神といわれている存在、あるいは大いなる秩序とでもいうべき大きな大きな愛が片時も離れず包んでいてくれていると言うこと、それをどうか感じてもらいたいのです。信じて欲しいのです。だってそれは本当にそこにるのだから。いつも温かく貴方を見守っているのだから。
ただ。それをどうやって伝えたらいいのかそれが判らなくて本当にもどかしい!どうしたらそれを実感して貰えるんだろうか。どうかそれを感じられたときの素晴らしく温かな歓びを知って欲しい。本当にそれを望みます。祈ります。
死んでしまいたいという気持ち、まーるにもよぉーくわかります。何度も何度も死のうと思ったし若い頃には手首も切ってみたし薬を用意したこともある。もちろん想像を絶するような壮絶な苛めに逢っている子達と比較になるわけのない甘っちょろい気持ちではありますが。今この瞬間にも死んでしまいたいと思っている子供達。生きて、生きながら自分が何故生きているかわからなくなってくる。ほんとに辛いよね。でもね、貴方を見守る温かい手があるんだよ、たとえ目に見えなくても。そして今は見えなくても必ず道は見えてくる、時間だけは誰の上にも平等なのだから。それを信じて欲しいと思う。死んでしまったとして、それで楽にはならないのです。死んでしまったらまた生まれ変わって同じ課題をやり直すことになるのです。自殺が悪いことだから死んではいけないのではなく、死んでも解決はしないから死んではいけないのです。輪廻転生、因果応報、今、どれもが間違った方向へ脚色されてしまっています。死んで何もかも無になるなんて有り得ない。肉体だけがすべてではないのです。魂こそがあなたなのです。悲しみ歓び怒り苦しみ、それを感じることそれ自体が魂の存在を証明してくれています。どうか生きるためにこの世に来たその魂を思い出して欲しい。そして目を開けて世界を見て欲しいです。世の中そうそう捨てたものではないということに気付いて欲しいです。

 
最後にまーるが自分の経験を基に人生の転機となってくれた文献などのキーワードを記しておきます。まーるの言葉ではそれらに著されている世界をとてもじゃないが言い表せると思えないから。せめて何かのきっかけになってくれたらと、それだけを切に切に願います。

エドガー・ケイシー
福田高規
江原啓之
シャーリー・マクレーン「アウト・オン・ア・リム」
美輪明宏「紫の履歴書」

どうか道を、光へと続く道をみつけてくれますように。
20006年11月18日 まーる

posted by まーる at 02:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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